電報とメディア論
結婚式の披露宴に届くお祝いメッセージが普通の手紙だったら?
先日、名古屋に住む会社の知り合いの方(いちおうかなり上の方)の結婚式に電報を送ろうという話になりました。
一つ下の後輩はネットで電報サービス見たいなもの見つけ、こっちで送りませんか?と言ってきた。一つ下でも彼はかなりのデジタルネイティブ世代。
う〜ん、やはり結婚式場に到着しているお祝いメッセージは電報でないと伝わらないのではないか?と、古い世代(?)の私は答えてしまう。
なぜなら、電報、ある意味このご時世、相当面倒な手段を通じて、単純なメッセージを送るという事に意味があるのではないだろうか?と思ったからです。
電報配達者がたった50文字そこらの文字を含んだ紙ペラと包み(結局どんな包み、ケースにしたのか不明)を持ち、あの電報配達中という文字の書かれた車が結婚式場に時間に間に合う様に走る姿、この過程こそに「電報」を送る意味があるのではないだろうか、と私は考えました。
その事を考えていると、マクルーハンの「メディアはメッセージ」という言葉を思い出しました。これの解釈はいろいろとあるので、ここでは詳解しませんが、まさにこれがフィットする例だとは思いませんか。
電報で伝えようとする結婚祝いのメッセージは、電報で到着する事そのものでメッセージとして成立するのではないだろうか。
おそらく受け取った本人にも、電報を受け取ったという記憶の方が、その中に書かれていたメッセージよりも記憶に残るのではないだろうか。
電報というメディア。ネットが普及してもまだ無くなりそうにはありませんね。
披露宴で司会者が「新郎新婦へのインターネットでメールが届いています」という時代がくるかどうか?私は電報が無くなるまで来ないと思います。
先日、名古屋に住む会社の知り合いの方(いちおうかなり上の方)の結婚式に電報を送ろうという話になりました。
一つ下の後輩はネットで電報サービス見たいなもの見つけ、こっちで送りませんか?と言ってきた。一つ下でも彼はかなりのデジタルネイティブ世代。
う〜ん、やはり結婚式場に到着しているお祝いメッセージは電報でないと伝わらないのではないか?と、古い世代(?)の私は答えてしまう。
なぜなら、電報、ある意味このご時世、相当面倒な手段を通じて、単純なメッセージを送るという事に意味があるのではないだろうか?と思ったからです。
電報配達者がたった50文字そこらの文字を含んだ紙ペラと包み(結局どんな包み、ケースにしたのか不明)を持ち、あの電報配達中という文字の書かれた車が結婚式場に時間に間に合う様に走る姿、この過程こそに「電報」を送る意味があるのではないだろうか、と私は考えました。
その事を考えていると、マクルーハンの「メディアはメッセージ」という言葉を思い出しました。これの解釈はいろいろとあるので、ここでは詳解しませんが、まさにこれがフィットする例だとは思いませんか。
電報で伝えようとする結婚祝いのメッセージは、電報で到着する事そのものでメッセージとして成立するのではないだろうか。
おそらく受け取った本人にも、電報を受け取ったという記憶の方が、その中に書かれていたメッセージよりも記憶に残るのではないだろうか。
電報というメディア。ネットが普及してもまだ無くなりそうにはありませんね。
披露宴で司会者が「新郎新婦へのインターネットでメールが届いています」という時代がくるかどうか?私は電報が無くなるまで来ないと思います。
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