朝日カルチャー新宿教室
7月3日の社会学者、宮台真司氏のツイートのまとめです。
『日本の難点』を読んで以来、宮代氏の記事には結構目を通しています。
しかし、朝日カルチャー新宿教室の講義のレベルの高さに驚き。
この講義、半端ないですね。
以上
『日本の難点』を読んで以来、宮代氏の記事には結構目を通しています。
しかし、朝日カルチャー新宿教室の講義のレベルの高さに驚き。
一昨日(2011年7月2日)の朝日カルチャー新宿教室での講義で の、宮台発言を、ツイートで再現してみます。連投になりますが、ご容赦ください。原発問題にも、まどマギ問題にも、共同体問題にも、ショッピングモール化 問題にも、全てに関係する事柄です。それでは開始します!
今後しばらくは、震災後(ポスト震災)に耐えうる作品かどうかが、メ ディア表現や学問表現の評価軸にならざるを得ないだろう。震災後に耐えうるとはこれ如何に? 一口で言えば「規定されてあることが、自由や希望や未来の前 提になる」ということだ。例によって思想史を迂回することで噛み砕く。
ドイツ人間学と米国政治哲学との関係から。震災後、経済格差と別に社 会格差=人間関係資本(ソーシャルキャピタル)の格差が問題になった。心底心配してくれる他者がいる人/いない人。心底心配してあげる他者がいる人/いな い人。もう一つは、子供の疎開先を見つけられる人/見つけられない人。
だから震災後は当然の如く共同体や絆が鍵概念になる。だが放っておけ ば「一人は寂しい、だから絆が必要」「一人では生きられない、だから共同体が必要」という話に短絡しかねない。だが、その程度の寂しさや生きにくさであれ ば、周到に設計された〈システム〉で埋め合せ可能だ。共同体は必然ではない。
もっと論理的な理解へ。助けになるのが哲学的人間学だ。18~19世 紀的人間学は、世界は神が決めたものだとの理解に抗い、世界は人間が決めるものだと理解した。カントは理性の限界を理性で見究め、理性の限界内で社会を運 営すべきと考え、ニーチェは世界が人間の意志に応じて現れうるものだと考えた
20世紀人間学への転轍機になるのがシェーラーだ。彼に影響を与えた のが十歳年長の動物学者ユクスキュルだ。ユクスキュルはゾウリムシにはゾウリムシの、イヌにはイヌの、ヒトにはヒトの世界があるとした。つまり動物種ごと の環境(ウムベルト)があるとした。要は、イヌとヒトにとって世界は異なる。
ユクスキュルを踏まえ、シェーラーは動物を世界緊縛的存在と捉え、対 するヒトを世界開放的存在と捉えた。ここでは、動物は「本能で規定された存在であるがゆえに、世界が規定されてある」↔ 人間は「本能で規定されきらない (幼体成熟的)存在であるがゆえに、世界が未規定だ」という具合に対比された
(人間が未規定であるがゆえの)世界の未規定性は当初、宗教的に決定 された世界という19世紀的世界観に対し、人間の自由を擁護したと理解された。だがやがて、「未規定な人間」が「未規定な世界」に向かいあえばあらゆる体 験や行為が不可能になることが、理解されるようになる。ゲーレンの登場である
彼によれば、未規定な人間は、制度に支えられて、初めて規定された存 在(の等価物)となり、そのことで世界を規定可能にできる。動物 ;[本能による規定性]→世界の規定可能性。人間;[本能による未規定性×制度に よる規定性]→世界の規定可能性。啓蒙思想的制度観に対する明確な逆転がある
啓蒙思想的制度観;「自由な人間を、制度が制約する」。ゲーレン的世 界観;「未規定な人間は、負担免除機能を果たす制度によって自由になる(選択できる)」。制度という変項に、システムを代入するとルーマンになる。つまり 「未規定な人間は、負担免除機能を果たすシステムによって自由になる」だ。
19世紀的人間観と20世紀的それとの相違;「未規定性を自由と捉え るか不自由と捉えるか」。20世紀的人間観では「未規定性による不自由は、制度やシステムで埋合されねば前に進めない」。重要;制度やシステムは(1)主 体に対し「選べない与件」として現れるが(2)徹底して「恣意的」であること
20世紀的人間学の発想は、社会学とりわけデュルケムに親和的。彼に とって、社会は(1)主体に対して「選べない与件」として現れるが(2)徹底して「恣意的」だ。[シェーラー→ゲーレン]の流れも[19世紀の機能主義的 人類学→デュルケム]の流れもそこは共通する。これらの双方がルーマンで合流
“徹底的に「恣意的」な、しかし主体にとって「選べない与件」”がな ければ、我々は前に進めないとの発想。米国のコミュタリアン(マッキンタイヤやサンデル)の発想にも継承される。それが典型的に現れるのが、サンデル「白 熱教室」で紹介される生物学者マーク・ハウザーの「トロッコ問題」論である。
(1)「暴走トロッコ。行く手に5人。ポイントを切り替えれば5人は 助かるが、引込線上の1人が死ぬ。君はポイントを切替るか」→どこでも7割イエス。(2)「暴走トロッコ。行く手に5人。横のデブを落とせばトロッコが止 まって5人は助かるが、デブは死ぬ。君はデブを落とすか」→どこでも7割ノー
功利主義(帰結主義的合理性:5人より1人死ぬ方がマシ)でもカント 的義務論(定言命令:人命を手段として用いるな)でも偏差は説明不能。そこでハウザーが持ち出すのが「情動の越えられない壁」。壁は恣意的だ。デブが老人 か若者か、白人か黒人か、男か女かで壁が異なり、異なり方が所属文化で異なる
我々の選択は「常に既に」そうした文化相対的(恣意的)な「情動の越 えられない壁」に裏打ちされる。そうした裏打ちがないと、人間はトロッコ問題を前に立ちすくむ。コミュニタリアンが共同体を擁護するのは、寂しいとか生き られない云々でなく、「負荷がかかった自己」を論理的に見出すしかないからだ
“「恣意的」な、しかし主体にとって「選べない与件」”を政治的に構 築する(選ぶ)ことが必要なのがポストモダン(後期近代)。ローティ感情教育論:誰を人間として認識できるのかの境界線(情動の越えられない壁)を教育を 通じて動かせ。不遜なパターナリズムの不可避を提唱するのがプラグマティズム
ちなみにリバタリアニズムが暗黙の前提としていた“近接性ゆえの「越 えられない壁」”を、当てにできなくさせたリベラリズム的なアノミー状況の拡がりゆえに、“「選べない恣意的与件」を「選ぶ」”という逆説的コミットメン トが、推奨されるしかない--と見るのがコミュニタリアニズムの実践論的本質
“「恣意的」な、しかし主体にとって「選べない与件」”が不可欠との 発想は環境倫理学者キャリコットも同じ。彼は“「恣意的」な、しかし主体にとって「選べない与件」”としての「場所」(マチやムラ)なくして、ヒトの尊厳 は保てないとした。単なる選択自由の延長線上には、尊厳の破壊しかありえない
つまり「便利・快適」の延長上に「幸福・尊厳」はない。震災復興で は、放って置けば「便利・快適」要求の果てに入替可能なショッピングモール化が進む。北谷アメリカ村や天久通信施設の変換後の沖縄がそうだった。回避する には、ヒトでなく陸前高田や代官山を主体と見て、ヒトをパラサイトと見るべき。
そうすることで初めて「場所」(マチやムラ)が入替不能になり、それ ゆえヒトは自分を入替不能だと感じられる、つまり尊厳を感じられる。迂回路の思想。主体の功利(選好)に直接応えず迂回することで主体のトータルな「幸 福・尊厳」(という功利(選好))が増加するとの発想。むろん功利主義の伝統外
「選べない、恣意的なモノ」を(逆説的だが自覚的に)“引き受ける” ことなくしては、自由も未来も幸いもない−−これが「ポスト東日本大震災の意味論」だ。これは、“「自己の謎」の解決が「世界の謎」の解決だ”あるいは “「承認」されれば全て良し”といった「ポストオウムの意味論」とは違う。
「まどマギ」のまどかは「誰からも忘却されること」と引き換えに世界 (の基本ルール)を作り変える。だが動機は「絆の擁護」という近接性。セカイ系との鮮やかな対照。「まどマギ」;「絆のある他者」を擁護するべく世界を作 り変える。「エヴァ」;「自己の謎」を承認によって解決する(世界そのまま)
「コクリコ坂」の主人公は父性に魅惑された存在。父性とは、あえて引 き受ける力。ここでの文脈では“「恣意的」な、しかし主体にとって「選べない与件」”をあえて引き受ける意志。正確にいえば「あえて引き受ける」か「作り 変えて自分を抹消するか(英雄譚)」。抹消=奪人称性なくして世界を作れない
双方に共通して、「絆はいいものだ」的な情緒でなく(情緒はむろんあ るが)「自分が自分であるための証として絆を擁護する(べく世界を作り変える)」という意志が強調される。つまり“「恣意的」な、しかし主体にとって「選 べない与件」”をあえて引き受ける意志が強調される。ポスト震災的な意味論へ
ちなみに宮崎吾朗「コクリコ坂」は「ゲド戦記」とは対照的。「ゲド」 は五朗の駿への「反抗期」に過ぎず、だから父殺し(による精神安定)がモチーフになっており、イタかった。対照的に「コクリコ坂」は、「脱反抗期」ともい える父赦し(=世界を引き受ける父を引受けること)がモチーフになっている。
この講義、半端ないですね。
以上
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