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2年を振り返り

本来なら大学院の入学式。

僕は4月から博士後期も3年目。
普通の立派な学生なら、3年目で卒業できるのだが、僕はできが悪いので4年以上は決定。
自分自身のリマインドのために2年間の総括の箇条書き。

2009年(D1)
Media Concentration、Media Economicsを軸に研究を進める。研究計画書もこのように書いた。
電波監理局長濱田成徳を軸とした1957年の電波政策を研究。
日本におけるConcentrationの素はここにあるとみる。
※これは、修士論文の延長として、査読付き論文を通すためには、このフィールドで一本早めにあげるのが良いと判断した。

9月予定外の海外出張。
下調べの1ヶ月。帰国後、報告書と雑誌の原稿作成のため2ヶ月程度は研究は進まず。

イギリスのDTGで聞いたスイッチオーバーの話をもとに、メディアの寿命を考える。
DVB−T→DVB−T2への移行がどのようになされるか注目。
※Google及川氏の提唱するコンテンツとコンテナとコンベヤのの関係で、メディアの寿命に関して何かしら設計できないかと模索。しかし、前提は建てられるが、研究手法に戸惑い頓挫中。

この頃、メディア史研究会の研究会発表を予約。D2の10月にプロットされる。

2月、次男誕生。長男は3歳を越え、4月からは幼稚園に入園する。子育てが忙しくなってきた。

2010年(D2)
1957年関する資料を集める。郵政省電波監理局発行の電波時報、国会議事録をもとに当時の年表を作成しながら、時系列に詳細に検討。
※これにかなり時間を取られた。

資料より、田中角榮における大量免許は、世間一般が言われているほどたいした業績でないと思い。

これを軸に論文を執筆。9月中旬が締め切りののソシオサイエンス向けに執筆。

7月に予定外の異動。夏場はイベントでずっと外に立たされるという、ある意味、日勤教育に近い仕事にはまる。
※これにはまいった。疲れのため、夜にしていた研究がまったく進まない。

ソシオサイエンスの投稿を取り下げる。
※論文のポイントが散漫になっているのが駄目だった一番の原因。

10月、月末に控えた研究会のための発表資料作成。毎週大学へ行く。
10月末、メディア史研究会にて発表。名だたるメディア史学者の評価は50点というところ。
※僕の研究がマニアックすぎるので、意味を理解してくれているのは成城大の古田先生(NHK文研出身)ぐらい。

12月、メディア史研究に投稿を予定する。

2月末、メディア史研究に投稿。
※半分あきらめていたのですが、先生から出さないとなにも始まらないと尻を叩いてもらい、投稿。

3月、この地震。前の職場へ一次復帰。

そう見てみると、まずは、

・自分の意志が弱い。時間が無いのであれば、早起きなり対応すべきことはある。
時間は自分で作るもの、というのが大学生時代の口癖だったが、大人になると、何かと仕事が忙しいことを理由にして甘えている自分がいる。

・計画が大切
論文を構築していく設計図ができていない。読んでいる本も興味が散漫。研究・論文に関係する本に徹するべし。

・仕事は突然やってくる
ぼくのようなリーマデント(studet + salary manをもじった私製造語)は、いつどこで仕事がやってくるか分からない。
研究対象と仕事が一致していれば良いが、全く別のフィールドだとかなり大変だ。
普通の社会人学生というものは同じようなフィールドで研究をするのが一般的なんだろうけど、これは自分がどうしたってどうにもならないのであきらめるが、そのための余裕が必要だ。

2011年(D3) 以下は予定
一本の投稿論文を通す。
平行して博士論文の骨組みを考える。
放送史だけに注力する。

2013年3月、子供の幼稚園卒業と一緒に、僕も卒業したい。

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